開港の街は、日本の「はじめて」の宝庫。牛鍋、食パン、カツレツ──文明開化の味を生んだ店の多くが、いまも同じ場所で火を絶やしていません。暖簾の向こうは、おいしい博物館です。
第九景
太田なわのれん ─ 牛鍋、ここに始まる伊勢佐木町界隈|阪東橋・関内方面
伊勢佐木町界隈明治元年(1868)創業牛鍋
文明開化の象徴「牛鍋」の元祖と伝わる店。明治元年(1868)の創業以来、ぶつ切りの牛肉を味噌で煮込む往時のままの牛鍋を守り続けています。すき焼きへと洗練される前の、荒々しくも滋味深い「開化の味」。座敷に上がり鉄鍋を囲めば、ざんぎり頭の明治人と同じ湯気の中にいる心地がします。
初めてなら迷わず名物の味噌牛鍋を。すき焼きとの違いこそがこの店の歴史です。記念日の会食にも向く、ハレの老舗。
第十景
荒井屋 ─ 明治二十八年の牛鍋曙町|阪東橋駅・関内駅方面
曙町明治28年(1895)創業牛鍋
明治28年(1895)創業、横浜牛鍋文化のもう一方の雄。割下で仕立てる牛鍋は上品で艶やか、ランチの牛鍋膳や名物の牛まぶしは「老舗の敷居」をやさしくまたがせてくれます。横浜の牛鍋屋は牛鍋発祥の地・横浜の生き証人同士。太田なわのれんの味噌、荒井屋の割下と、食べ比べてこそ見える景色があります。
昼の牛鍋膳が入門に最適。夜は予約して、肉の格が上がるコースを。食後は歩いて横浜橋通商店街(第二十五景)の下町風情へ。
第十一景
勝烈庵 ─ 棟方志功が愛したカツレツ馬車道|関内駅 徒歩約3分
馬車道昭和2年(1927)創業洋食
昭和2年(1927)創業のかつれつ専門店。秘伝のソースをまとった「勝烈定食」は、馬車道の昼の顔です。この店をこよなく愛したのが板画家・棟方志功。店内には志功の作品が飾られ、包み紙や看板にもその書と画が息づきます。芸術家の胃袋と心をつかんだ味は、九十余年を経ても端正そのもの。
定食の御飯と味噌汁はおかわり自由の心意気(変更の場合あり)。食後は馬車道十番館(第十六景)で珈琲とビスカウトの黄金リレーを。
第十二景
センターグリル ─ 庶民のナポリタン、ここから野毛|桜木町駅 徒歩約5分
野毛昭和21年(1946)創業洋食
ナポリタン発祥はホテルニューグランド──それをケチャップ仕立ての庶民の味に翻訳し、街に広めた立役者がこの店です。昭和21年(1946)、ニューグランドの流れを汲む料理人が野毛に開いた洋食店は、以来80年、同じ味のナポリタンとオムライスを出し続けています。銀皿に山盛りの「浜ナポ」は、横浜の戦後復興の味そのもの。
注文は迷わず白いナポリタン皿の「スパゲティーイタリアン」。昔ながらの固めの麺に、粉チーズとタバスコをたっぷりが野毛流です。
第十三景
ウチキパン ─ 日本の食パンの源流元町|元町・中華街駅 徒歩約1分
元町明治21年(1888)創業ベーカリー
居留地の英国人ベーカリーで修業した打木彦太郎が、明治21年(1888)に暖簾を継いで開いた店。以来130年余り、ホップ種でゆっくり発酵させる山型食パン「イングランド」を焼き続けています。日本の食パン文化の源流のひとつとされる味は、トーストすると小麦の香りが立ちのぼる、飾らない傑作。元町の朝は、この店の焼き上がりの匂いから始まります。
「イングランド」は午前中に焼き上がり、夕方には売り切れることも。一斤買って、まずは何も塗らずに一枚。耳のうまさに驚きます。
第十四景
喜久家洋菓子舗 ─ ラムボールという横浜銘菓元町|元町・中華街駅 徒歩約2分
元町大正13年(1924)創業洋菓子
大正13年(1924)創業、元町の洋菓子の老舗。名物「ラムボール」は、ラム酒をきかせた生地をチョコレートで包んだ大人の銘菓で、横浜土産の「通の正解」として半世紀以上愛され続けています。外国人住民の舌を満足させてきた元町の菓子文化を、一粒で物語るお菓子です。
ラムボールは日持ちするので手土産に最適。喫茶室があいていれば、プリンアラモードの系譜を感じる昔ながらの洋菓子も座って味わえます。
第十五景
崎陽軒本店 ─ シウマイとひょうちゃんの総本山横浜駅東口 徒歩約1分
横浜駅明治41年(1908)創業シウマイ
明治41年(1908)、横浜駅構内の売店として創業。昭和3年(1928)に発売された「シウマイ」は、冷めてもおいしい駅弁のおかずとして横浜名物の座に就きました。昭和29年発売の「シウマイ弁当」は今や日本で最も売れる駅弁のひとつ。醤油入れの陶器人形「ひょうちゃん」は、漫画家・横山隆一が表情を描いたことに始まる小さな美術品で、コレクターを生み続けています。
本店1階ショップでは真空パックでない「できたてシウマイ」を。ひょうちゃんは季節・限定デザインがあり、弁当を開けるたびの「顔ガチャ」も通の愉しみです。
第十六景
馬車道十番館 ─ 明治の西洋館で珈琲を馬車道|関内駅 徒歩約4分
馬車道喫茶・西洋料理ビスカウト
ガス灯が最初に灯った街・馬車道に立つ煉瓦造りの西洋館。昭和42年(1967)、明治の建築様式を忠実に再現して建てられ、一階の喫茶室は「文明開化の応接間」と呼びたくなる気品です。名物は馬車をかたどった焼き印のビスケット菓子「ビスカウト」。レモン・ピーナツ・チョコのクリームを挟んだ姿は、百年前の舶来菓子の面影そのものです。
喫茶室の窓際でビスカウトと珈琲を。建物前には往時の牛馬の水飲み場が保存されています。見落とさずに。
第十七景
田中家 ─ 龍馬の妻おりょうが働いた料亭旧東海道・神奈川宿 台町|横浜駅西口 徒歩約10分
神奈川宿(台町)文久3年(1863)創業料亭
横浜駅からわずか徒歩10分の坂の上に、文久3年(1863)創業の料亭が現役で暖簾を掲げています。前身は歌川広重『東海道五十三次』の神奈川宿の絵に描かれた茶屋「さくらや」。そして明治のはじめ、ここで仲居として働いたのが坂本龍馬の妻・おりょうでした。英語が話せて月琴を弾くおりょうは、外国人客にも人気だったと伝わります。幕末がすぐそこにある一軒です。
要予約の会席が基本。ハードルが高ければ、台町の坂(旧東海道)を歩くだけでも宿場の名残が拾えます。広重の絵と見比べながらどうぞ。
第十八景
ジャズ喫茶ちぐさ ─ 日本のジャズの聖地野毛|桜木町駅 徒歩約5分
野毛昭和8年(1933)創業ジャズ喫茶
昭和8年(1933)創業、日本最古級のジャズ喫茶。創業者・吉田衛が集めたレコードを目当てに、戦後は秋吉敏子ら後の巨人たちが通い詰め、スピーカーの前で耳を鍛えました。一度は歴史を閉じかけましたが、街の人々の手で野毛に復活。大音量のヴィンテージサウンドに身を沈める「音楽を聴くためだけの時間」は、サブスク時代にこそ贅沢です。
おしゃべりは控えめに、一杯の珈琲でA面一枚ぶん聴き込むのが流儀。リクエストできる時間帯もあります。夜は野毛の酒場へ続くのが黄金コース。
第十九景
コーヒーの大学院 ─ シャンデリア輝く純喫茶の殿堂伊勢佐木町|伊勢佐木長者町駅 徒歩約3分
伊勢佐木町昭和49年(1974)創業純喫茶
正式名称「珈琲専門店 コーヒーの大学院 ルミエール・ド・パリ」。その名に恥じぬシャンデリアと金彩の大広間が広がる、日本屈指の豪華喫茶です。「大学よりも上」を目指して名付けられたという屋号、クリームが山と盛られたウインナーコーヒー、昭和のまま時が止まった制服のサービス──すべてが様式美。純喫茶巡りの最終目的地と呼ばれる理由が、扉を開けた瞬間にわかります。
名物のウインナー珈琲とホットケーキ系の甘味を。広間の奥の席から振り返って眺める店内が、いちばん「大学院」です。
第二十景
有隣堂 伊勢佐木町本店 ─ 本の街の灯台伊勢佐木町|関内駅 徒歩約5分
伊勢佐木町明治42年(1909)創業書店
明治42年(1909)創業、横浜の読書文化を百年以上支えてきた老舗書店の本店。関東大震災も戦災も乗り越え、伊勢佐木町の同じ地で本を売り続けてきました。近年はYouTube「有隣堂しか知らない世界」で全国区の人気者に。文具と本の売り場を巡るだけで横浜の知の歴史に触れられる、街の灯台のような存在です。
ご当地・横浜本と文具のコーナーは手土産探しの穴場。この名鑑のようなディープな横浜案内の「原典」たちにも出会えます。